作りたいもの、言いたいことは山ほどあるのになかなか進みません。
今日は下顎骨から歯肉になる平面を抽出、押し出して、歯でブーリアン。
トポが無茶苦茶なので、3Dスナップ使ってリトポ、明日は歯との調整、角はzbrushでクリース。サブディビジョンサーフェスにして再調整、、、、
さらに調整、、、一度できると使いまわせるのですがなかなか、、
ずっとほったらかしにしていたブログに久しぶりに記事を書きます。
今年は1月に買ったCINEMA4Dという3Dアニメーションソフトにかかりっきりで
ブログは忘れていました。
何せ年に8万円以上する高いソフトだし、それなりにハイスペックなパソコンを買わないといけなかったので、もし使いこなせなかったら全て台無し。
高い釣り具を買ったり、温泉にでも行った方がよかったってことになるので、年前半はそれなりにプレッシャーがありました。
本屋で説明書を買って取り組むのですが、そんなに売れるジャンルじゃないから説明書のバージョンが古く、ただでさえ難解なのに変にてこずります。
60歳寸前というお爺さんでもあるので、『ええ歳してやめとけ』という心の声もします。
まあ、いつやめても良いという楽な状態でもあるので、面白いと思える間はやるでしょう。授業や講和など、それなりに使う機会も与えられています。
幸せなことです。 上は最近作った動画です。何もかも全部一人で作ってます。
昭和30年代男ならフォークギターを手にした人は多いと思う。
中学校入学当時はフォーク全盛期で、誰かが録音したカセットテープを友人で回して、楽しんだものだ。
なごり雪や神田川というような情感たっぷりの歌にはスリーフィンガー奏法などのしっとりとした分散和音が合うので、一生懸命練習した。
しかし、『二人で行った横丁の風呂屋~』『キャベツばかりをかじってた~』
『顔の皺は増えてゆくばかり~』などの歌は人生これからという中学生が聴くにはあまりに暗すぎた。
大学の専門課程に入る時、前述の幽霊屋敷を出て、個人宅の二階に間借りしたのだが、風呂はなく、部活後に汗と泥にまみれて銭湯に行ったものだ。
少し早い時間に銭湯に行くと、高確率で全身入れ墨のおじさんたちと一緒になった。
平然を装っていた私だが、内心は縮みあがっていた。それほど広くもない風呂場に5,6人の入れ墨衆と私。小さな石鹸がカタカタ鳴りはしないが、恐怖で歯がガチガチいった。
私は湯舟に入っていたのだが、早々に出るといかにも逃げ出したように思われるので、必死で平然な振りをしていた。
当然入れ墨衆も湯舟に入ってくる。
『兄ちゃん、、、』 一人が私に話しかける。
『はい。』と私。
次に何がくるのか? 私が何か気に障ることをしたろうか? まさか仲間になれと言うんじゃ?
『ぬるくないか?』と次の言葉。
その後私がどう答えたかは記憶にない。
大学は小倉の町にあり、歓楽街の丸源ビルの深夜喫茶のウェイター、風俗街近くのコンビニ店員、〇△団事務所の近所の家庭教師、田川方面の運転手などのバイトをしたため、恐ろしい体験をいくつもした。
何の話だったか、またわけがわからなくなった。
そうそう、貧乏を礼賛するような四畳半ソングに浸っていてはいけないとだんだん思い始めたのだ。だいたいこんな歌を作って大儲けしてるなんてまちがってる。
そこで私は四畳半ソングに別れを告げ、聴いたのは吉田拓郎だった。彼の歌は貧乏くさくないし、元気がいい。アルペジオをパラパラやるより、ギターが壊れるくらい激しく腕を振るストローク奏法が元気が余っている中学生にピッタリだった。
ところが上には上があって、ギターにアンプをつないで爆音を鳴らすロックンロールなるものが聞こえてきた。
中学校の時には完全にかぶれてしまい、音が出てるのかどうかわからないレベルのなんちゃってベースだったけど、学芸会でバンドもやった。
高校生になるとやや安直なロック熱も醒め、更に高尚なジャンルに趣味を変えた。
石野 真子 ちゃん である。
離れの二階で勉強してて彼女がテレビに出ると、大声で母が呼んでくれた。
彼女は毎日忙しくてろくに睡眠が取れていないと、彼女が書いた本にあったので、、
、、当時ゴーストライターの存在など知る由もない。
真子ちゃんが寝不足で頑張っているのだからボクも勉強を頑張ろう!
と本気で思っていた。田舎者の純真な私。
私は楽器が好きだ。子供がブラスバンドにいたこともあり、この20年くらい中毒のように楽器や楽譜を買ってきた。で、消化不良で医院の屋根裏行きになっている。このストックは捨てずに時々降ろして使っている。
私が楽器や音楽がいくら好きでも、いくら弾いても、なかなか深く楽しむことができないのは、子供の頃に音楽を真面目に勉強しなかったからだろう。
思えばサッカーや野球も同じ、筋肉ばかり使って、頭を使わなかった。
ある時、釣りの上手な親戚のおじさんに、『いやー、釣りは下手でなかなか釣れません。』と、軽口を言うと、
『それでいいんじゃ。』
私には意外な返答だったので、心に残った。
今考えると、何もかもできなくていいじゃないか、ということかなと思っている。
仕事で頭を使うことは実に多い。
頭を使って診断、方針を立てた後、ものすごく気を使いながら筋肉を使う。
話は45年前の安下庄中学校の音楽室に変わる。
当時、掃除といえば雑巾がけ。はじめは白い雑巾も一度バケツに入ると灰色の物体に変わる。音楽室の漆喰の白壁にはアーティスティックな濡れ雑巾の跡がいくつもあった。
御多分に洩れず、私も濡れ雑巾で床を拭いたり、投げたりしていた。
ある時、女子の気を引こうとして、女子の方に向けて濡れ雑巾を投げた。
濡れ雑巾が空中高く音楽室を回転しながら飛んでいるまさにその時、女の音楽の先生が入ってきた。
先生は見るなり顔色を変えて私の方に詰め寄り、言った。
『岡田君! 昔の武士なら女子に手を上げるなんて切腹よ!!』
後にも先にも切腹を申し渡されたのはこの時だけである。普通二度言われることはないが。
この私に切腹を命じた先生は開業以来ずっと来てくれている患者さんである。
もしこのことがばれたらどうしようといつも思う。
ジャンバルジャンの気持ちである。
上の画像は子供たちが欲しいというので買って、少し吹いて投げたもの。
私が吹いても空気が流れる音しかしない。
いつかメルカリに出そうと思っているが、もうかなり古くなってしまったので、購入者からクレームを言われるかもと思いほったらかし。
私は楽器が好きだ。でも音楽はだめだ。
シャープやフラットの意味を知ったのは40歳近くになってからだ。通知表ではいつも評価は3だった。今日はこの誇り高き私に評価3を付けた人のことを話そう。
最近往診の依頼があった。もう10年くらい通院されていた方で、脳梗塞の後遺症や
91歳という高齢もあり、義歯の調整に来て欲しいとのこと。
お家に伺うと囲碁の仲間が来ていて賑やかな様子。『先生、邪魔だからワシらはあっちに行くねー。』と言って、机ごと碁盤を縁側に移動させて変わらず楽しそうに仲間は碁を打ち続ける。
私は汗びっしょりになって義歯の調整をするのだが、話を聞くと、教師をされていたという。
調整しながら続けて聞くと、音楽と数学の先生をされていたという。
『へー、どこで?』とへらず口の私はたたみかける。
すると安下庄中学校にいたことがあるという。
私、『ふーん。』 私は安下庄中学校卒だ。
私『、、、、、、まさか、、、まさかね、、。』当時の音楽の先生の名前を私は覚えておらず確かめようがない。覚えているのはあだ名だけだ。
治療は続く。
やはり紳士でいられない私はついに聞いた。
『先生、あだ名はありませんでしたか?』
すると、右手がゆっくりと上がり、OKマークを作り、こう言った。
『ウェーバー。』
『ああ! やはりウェーバー先生でしたか。私は音楽の歌のテストで先生のピアノに合わせて歌い、先生が苦笑いをしながら記録したことを覚えています。』と私は答えた。
歌う前に注意するポイントとして、最後の音をしっかり5拍伸ばせと言われ頑張って伸ばした記憶がある。実にくだらない事を覚えてるものだ。
あの時、先生はノートの私の欄に評価3って書いてたわけだ。5拍伸ばしたのに。
当時、先生は音楽室に掛けられているウェーバーの肖像画にそっくりのダンディーな先生で、スタイルも良く、物腰は上品、ピアノまで弾けて、、それはカッコいい先生だった。
91歳の今も囲碁をされるとは頭の中まで素晴らしい。
それにひきかえ、10年前に35年ぶりに会っていたのに気が付かず、その後10年経ってやっと再会を感激するという、とぼけた私だ。
安下庄中学校には当時もう一人女の先生がいて、また書こうと思うけど、切腹もののエピソードがある。あ、スカートめくりをしたわけではない、念のため。
濃紺の水面がキラキラ光り美しい。自然をモチーフにしたどんな有名な絵画も相手にならない。
凪の瀬戸内海は本当に優しく気持ち良い。こんな日は春も秋も本当に少なくなった。
いつものように師匠の船で沖のポイントに向かう。島の見え方と沖家室大橋の見え方をたよりにポイントを何度も流す。約40メートルの水深の駆け上がりを狙う。
と偉そうに言うが、私は今までホゴメバルしか釣ったことはない。
しかし、今日は初めて強い引きを感じ、引き上げる。水面に暴れるハマチの姿を見た瞬間、釣り針が中指に突き刺さった。歯を抜くのは得意だが、いくら引っ張っても抜けない。師匠が来て見るなり引き抜く。けっこう出血する。毎日血を見ている私だが、弱気になり、気分は『もうだめだ。』のお帰りモード。
ところが師匠は帰らせてくれるかと思ったら、平然と釣り続行。
やはり海の男だ。畑の百姓とは度胸が違う。
そういえば、4歳ころ、ばあちゃんと畑にいて、ばあちゃんが鍬をふるっている所にいも虫を発見し取ろうと手を伸ばしたら、頭に鍬が降りてきて怪我をした。
孫の頭をカチ割ったかと、ばあちゃん焦ったろうなあ。
ところで私は何を言いたいのだろう?海の怪我から畑の怪我に話が飛んだ。
なんか、読む人のことは考えず、思いつきをだらだらと書いてるので、もし読んでる人がいたら、ごめんなさい。
そろそろ人生の終盤なので、衰え始めた脳に残る記憶の断片を書き留めて、どんな人生だったか振り返っているのです。
その作業をしていると、本当にいろんな人にお世話になったと気づかされます。
さて出血してる私を尻目に師匠はコンスタントに釣ってゆく。
私は同じテンポで釣り糸をたぐり上げているつもりだが、『そんな引き方じゃ釣れん。』と言われる。
まあ、師匠は小さい頃から漁師だった父の船を勝手に出して釣りをしていた人。
神の領域に達している。最近は不漁続きで、近くのタテアミも減ったし、漁船も少ない中で、一人釣っている。
近くに頻繁に四国からの遊漁船が来るのだが、釣れても彼らに見られないように上げるそうだ。
そんな師匠だが、最近は高齢のため終わりを考えているらしく、今のドラム缶が空になったらやめると言う。
船も私に譲ると言ってくれるのだが、、、、、
港や船の管理は大変だし、何よりいつまでも元気でいて欲しい。
画像は娘のペット。よく見ると可愛い顔をしてる。
小中高校の帰りにはよく大きなため池のほとりを歩いた。ススキなどカヤに囲まれた、人間が草を踏み潰すからできた獣道のようなものだった。一歩踏み出すたびにバッタが驚いて飛び跳ねた。晴れた日はバッタ、トンボ、コオロギ、スズムシ。雨の日はたくさんのカエル。いつもにぎやかなものだった。
昆虫がたくさんいるものだから、当然ヘビもいた。アオダイショウ、ヤマカガシ、マムシ。ヘビを見つけると『あっ、ヘビだ!』と言いながらつい指さしてしまう。
これがいけない。ヘビを指さすと指が腐るらしい。しかし対策がないわけではない。誰かにその指を踏んでもらうと良いのだ。一人の場合は自分で踏む。これで大丈夫。
というわけで、私の指も、隣のひでっくんの指も今も無事である。
ついでに言うと、海にも危険があって、引き潮の海で遊ぶと高確率でハオコゼに刺された。刺されるとおしっこをかけると良いらしく、しばしばおしっこのかけあいになった。これも覚えておくと良い。年寄りは何でも知っているのだ。