昭和30年代男ならフォークギターを手にした人は多いと思う。
中学校入学当時はフォーク全盛期で、誰かが録音したカセットテープを友人で回して、楽しんだものだ。
なごり雪や神田川というような情感たっぷりの歌にはスリーフィンガー奏法などのしっとりとした分散和音が合うので、一生懸命練習した。
しかし、『二人で行った横丁の風呂屋~』『キャベツばかりをかじってた~』
『顔の皺は増えてゆくばかり~』などの歌は人生これからという中学生が聴くにはあまりに暗すぎた。
大学の専門課程に入る時、前述の幽霊屋敷を出て、個人宅の二階に間借りしたのだが、風呂はなく、部活後に汗と泥にまみれて銭湯に行ったものだ。
少し早い時間に銭湯に行くと、高確率で全身入れ墨のおじさんたちと一緒になった。
平然を装っていた私だが、内心は縮みあがっていた。それほど広くもない風呂場に5,6人の入れ墨衆と私。小さな石鹸がカタカタ鳴りはしないが、恐怖で歯がガチガチいった。
私は湯舟に入っていたのだが、早々に出るといかにも逃げ出したように思われるので、必死で平然な振りをしていた。
当然入れ墨衆も湯舟に入ってくる。
『兄ちゃん、、、』 一人が私に話しかける。
『はい。』と私。
次に何がくるのか? 私が何か気に障ることをしたろうか? まさか仲間になれと言うんじゃ?
『ぬるくないか?』と次の言葉。
その後私がどう答えたかは記憶にない。
大学は小倉の町にあり、歓楽街の丸源ビルの深夜喫茶のウェイター、風俗街近くのコンビニ店員、〇△団事務所の近所の家庭教師、田川方面の運転手などのバイトをしたため、恐ろしい体験をいくつもした。
何の話だったか、またわけがわからなくなった。
そうそう、貧乏を礼賛するような四畳半ソングに浸っていてはいけないとだんだん思い始めたのだ。だいたいこんな歌を作って大儲けしてるなんてまちがってる。
そこで私は四畳半ソングに別れを告げ、聴いたのは吉田拓郎だった。彼の歌は貧乏くさくないし、元気がいい。アルペジオをパラパラやるより、ギターが壊れるくらい激しく腕を振るストローク奏法が元気が余っている中学生にピッタリだった。
ところが上には上があって、ギターにアンプをつないで爆音を鳴らすロックンロールなるものが聞こえてきた。
中学校の時には完全にかぶれてしまい、音が出てるのかどうかわからないレベルのなんちゃってベースだったけど、学芸会でバンドもやった。
高校生になるとやや安直なロック熱も醒め、更に高尚なジャンルに趣味を変えた。
石野 真子 ちゃん である。
離れの二階で勉強してて彼女がテレビに出ると、大声で母が呼んでくれた。
彼女は毎日忙しくてろくに睡眠が取れていないと、彼女が書いた本にあったので、、
、、当時ゴーストライターの存在など知る由もない。
真子ちゃんが寝不足で頑張っているのだからボクも勉強を頑張ろう!
と本気で思っていた。田舎者の純真な私。