周防大島おかだ歯科医院院長のブログ

今までたどった道を振り返ってみます。公開していますが、基本自分のために書いています。

英語塾

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英語塾

 小学校4,5,6年は英語塾に通った。ハワイ帰りの厳しい先生だった。自信がなくて小声になると、『はあ?』とすぐ怒鳴られ、泣かされたこともある。それまで勉強を本気でやったことがなかったが、臆病者の私は怒られるのが怖くて、初めて集中して勉強した。今は褒めて伸ばす教育が主流だろうが、私は褒めると増長するだけだったろうから、私には良かったのだろう。他の科目は中学校に上がってもパッとしなかったが、臆病者ゆえに英語だけはできた。もしあの時勉強していなかったら、歯医者じゃなくて敗者だろう。

 豊田先生ありがとう。

 先生がサーフボードが首に当たって死んだ親戚の話をしてれたことがある。叱るばかりの先生の数少ない余談だったので覚えている。

 あれから40年。53歳の私はワイキキの海でサーフボードの上に初めて立った。

が、当然下手なのでインストラクターにこっぴどく怒られる。ネイティブハワイアンで大男のケリーは、ふがいない私にキレている。何でワイキキまで来て100ドル払って叱られなきゃならない? 私は何歳まで叱られ続けるのか?

 

安下庄小学校

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安下庄小学校グラウンド

 小学校のグラウンド。当時ここで何百人も昼休みに遊んでいたなんてもうイメージできない。

 ドライブで島を訪れる人にとっては瀬戸内のハワイで、頭に流れるのはフラのメロディーなのかもしれないが、私にとっては、どこへ行っても国破れて山河あり、の趣である。カーペンターズのイエスタデイワンスモアか青春の輝きが似合う。さすがに荒城の月ではない。

 小学校卒業時に渡された通知表の結果はふがいないものだった。小学校の集大成がこれかと情けなくて、奥の滑り台の所に当時あった相撲場で一人で泣いた。今考えると、悔し泣きする資格があるほど勉強などしてなかったクセに、やはり妙なマセ方をしている。情操教育の前に性教育をした母親のせいだ。なぜパトラッシュの前にパンティを教えたんだ?まあ本人はその気はなかったろうが。

 そんなクセのある、可愛いとは程遠い私を担任の古川先生はまったく怒ることなく見守ってくれた。怒っていたのかもしれないが、父親に比べたら手が出ないのだから何でもなかった。本当に小学生の頃は言いたい放題やりたい放題、限界まで醜さを発揮したと思う。その意味ではやり切った感がある。

ここまでブログを書いていて思い出した事がある。

小学校ではどこでも卒業時の文集に、将来なりたい職業を書くものだと思うが、自分は『医者になりたい。』と書いた。成績はひどかったのに、恥ずかし気もなく。

それを読んだからであろう、古川先生は卒業後、医者に関する本を二冊、私の家まで届けてくださった。それなのに私は、、、、何もせず、、、

私がワンパクし放題だった小学校4,5,6年の担任はずっと古川先生だった。

先生ありがとう。本当にお世話になりました。

 

 

アスファルト補修材

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アスファルト補修材

 歯科医院経営に欠かせないものがこのアスファルト補修材である。最近は特に僻地は人材不足で、ちょっとしたことを頼める人がいないので自分がやるしかない。というか、本当は自分がやってみたい。成果など考えず体をヒイヒイ言いながら動かすのが好きだ。絶対に私には百姓のDNAがある。

 回転が悪く飲み込みの悪いこの頭を使っても成果はあまり出ないが、筋肉さえ動かせば地面に穴が開くことだけは確かだ。

 駐車場はアスファルトだが、劣化してきて割れて雑草が生える所は除草剤をまく。車の重みで凹んできた所は最近深い水たまりになるので、このアスファルト補修材を敷くつもりである。できるだけ熱い日に、敷いて、上からできるだけ強く叩きつけなければならない。ばあちゃんも夏の暑い日でも毎日汗びっしょりになって畑仕事をしていた。

 顔は黒くてシワシワだったけど体は筋肉質で美しかった。

 アンジェラアキのhomeと言う歌を聴くと、ばあちゃんを思い出して涙が止まらなくなるので聞かない。

 そういえば、とうとう裏口にイノシシが現れた。日照りが続いて上の農道のミミズも少ないのだろうか。隣のモグラが出るビニールハウスには先日ネズミが出たし、院長の悩みはつきない。

 

周防大島安下庄小学校

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実家周辺


  小学校2年から高校卒業まで過ごした実家周辺である。家はミカンの段々畑で囲まれ、近所の子と、ある時は正義の味方、ある時は悪の秘密結社になり、山猿のように走り回った。あだ名はダメゴリラと命名された。ひどい。あんまりだ。命名されて約8年間はこの名前で呼ばれた。ここは安下庄(あげのしょう)という名称の入り江の集落で、私はそこの安下庄小学校、安下庄中学校、安下庄高等学校へ通った。当時は小学校が約6百名、中学校が約3百名、高校が約4百名?くらいいて、今と違って、遊び相手に困ることはなかった。同級生で隣の家なのに同じ名前の、ひでっくんと高校まで一緒に通った。ひでっくんが仮面ライダーの時は私がショッカー、私が仮面ライダーの時はひでっくんがショッカーである。彼の『とう!』という力強い声は今も耳に残る。

彼は運動神経抜群で、頭も良かったので、私はそっちの道を進もうとする無駄な努力をせずに済んだ。

 さてこの画像は最近撮ったものだが、確かこの辺にあった自分の所有する山の場所がわからない。ずっと固定資産税払ってるのに。

月刊 『冒険王』と『ぼくら』

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防府北基地官舎跡地

上の画像は歯科医師会の仕事で山口市に行った時に撮ったもの。

仕事が済んで時間ができると時々ここに来て、母親の思い出に浸って帰る。

 私は4,5歳の頃、幼稚園が怖かった。境港市の美哉幼稚園もいやだったが、特に防府市の中ノ関幼稚園の黒い背広を着た大きな園長が怖かった。近付いたことも何か言われた事もない。遠目に見てゴア様のようで怖かったというだけで、私が超臆病者というだけの事である。防府北基地の官舎から自転車の荷台に乗せられて園まで行っても、母のスカートの裾を握りしめて離さず、そのまま帰った。優しい伯父さんが連れて行ってくれたことがあったが、優しいのだから当然一緒にUターンして帰った。

 私は4,5歳にして不登園児になり、自宅で引きこもった。

 

 幼稚園に行かなくても、自衛隊の官舎は、当時何十世帯も狭い所で一緒に暮らしていたので、同じ年ごろの子供はたくさんいて、遊ぶも何も、とにかく一緒だった。

 でも、自転車に乗れるとすぐに近所の子を轢いたり、椅子が首から抜けなくなったり、かけっこすればオーバーランして川に落ちたり、隣の庭の物を持って帰ったり、十円持って移動販売のバスに天ぷら買いに行ったら金を商品の間に落として立ちすくんだり、なんとか幼稚園に行っても『可愛いコックさん』というダンスを覚えず保母さんにキレられたり、運動会で三角帽子をつけたらアゴ紐で嘔吐がついて一人立ち尽くしたり。もたれかかってきた子を払いのけたら転んで骨折させてしまったり、、、

 悲しいエピソードは尽きない。

 

 

 母は初めての子育てに自信を無くした。

 

 

 恐ろしい園長が、『この子は偉くなる。』と言ってくれたことが唯一の支えだったそうである。園長先生が落ち込んでいる母に根拠のないその場しのぎの言葉をかけたものだと思うけれど。

 

 そんな母が当時4,5歳の私に買ってくれた本が『月刊まんが冒険王』と『月刊まんがぼくら』である。わけがわからん。就学前の幼児に月刊まんがとか与えるか?

 スカートめくりとかエッチなネタまである。

 

『ごんぎつね』より先に『スカートめくり

』を知った子が良い子に育つわけがない。

 

小学生1年の時にはクラスのほとんどの女子に『ボイン』だとか『ナイン』だとか言っては怒る女子から逃げて遊んでいた。悲しい。

時が今なら親に知れ、ネットで吊し上げられ、社会から抹殺され、二年生にはなれなかっただろう。

 

あ、スカートめくりなんてしたことないですよ。まんがで『正義の味方』も学びましたから。

 

 

赤いカーペット

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下宿内観

 先日お話しした幽霊屋敷の続編です。お話ししたように6畳一間に真っ赤なカーペットです。貧しい食生活がわかります。

 これは前にお話しした当時国東に住む幼馴染のいとこが、遊びにやってきて盗撮したものです。

 六畳一間の貧乏長屋で、白壁と柱の間から隣の明かりが漏れ、布団の中にいながら、明日の時間割を隣の同級生に確認することができました。ボチボチ学生もワンルームマンションに住み、DCブランドやメンズファッション誌が注目され初めていた時代です。

 公立だけど歯科大なので、親の平均所得レベルが高く、新車とともに入学してくる者もいる。ガソリンも飲み代も無制限に親のツケという者もいました。

 皆が持ってる電話もないし、クラブに入っているから孤独を感じることはなかったけれど、古い木造の家にいるのは物寂しいものでした。

 雨の日に一人、木枠の窓を開け、揺れる楓の葉っぱを見ていたことがあります。

 吉田拓郎の『元気です』を聴くと当時が甦ります。

美保基地は小学生の通学路

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航空自衛隊美保基地裏門(88年)

 小学校の通学は、行きは自衛隊の幌付トラックの荷台に乗せられ、自衛隊の敷地内を突っ切って行った。帰りは自衛隊の敷地内を特に集団下校するわけでもなく入口で守衛に敬礼して、基地内をバラバラに歩いて帰った。基地内の床屋に行く子や、空手を習う子など、敷地内に子供がいるのが当たり前だったと思う。ある時年上の子にそそのかされて、親の財布から金を取って、基地のバーで買い食いしたことがあり、親にバレて恐ろしく叱られた。

 思いおこすと、弟はそんな悪いことはしないから、自分だけ厳しくされたのは仕方がなかったのかもしれない。

 自衛隊の広大な敷地でおもちゃのソフトグライダーを飛ばした青い空と緑の芝生が懐かしい。

 美保基地は米軍の駐屯地だったため、米軍の建物をそのまま使っていて、どこか異国情緒があった。私の住んでいた家は、『幸せの黄色いハンカチ』の健さんが住んでいるような所だったが、私の父よりも位の高い親の子は、二階建ての広い庭付きの家に住んでいた。その子の誕生日に招かれて行くと、おしゃれなドレスを着て、らせん階段を微笑みながら降りてきた。柳ジョージの『青い瞳のステラ、1962年夏、、』がイメージにピッタリくる。小学校1年生だったけどね。